津川 雅彦さん死去

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津川 雅彦さん死去

 俳優の津川雅彦(本名加藤雅彦)さんが4日、亡くなっていたことが7日、分かった。78歳だった。今年4月27日、妻の朝丘雪路さん(享年82)が亡くなり、5月20日に会見し「彼女を残すよりはいい結果になった」と悼んだのが、最後の公の場となった。

愛妻を追うように、津川さんが逝った。津川さんは芸能一家に生まれ、子役として数本の映画に出演した後、1956年の映画「狂った果実」に出演し本格デビュー。一躍、日活のスターとなった。

「ミンボーの女」(92年)など故伊丹十三監督作品の常連として活躍。2006年には祖父の姓を冠した「マキノ雅彦」名義で「寝ずの番」を初監督。朝丘さんとは1973年に結婚。朝丘さんは5年前にアルツハイマー型認知症を発症し、3年前からは津川さんが施設から自宅に引き取り、献身的な介護を続けてきた。自身も昨年秋に肺炎を患い、その影響で5月の会見は鼻にチューブを入れて臨み「(体調は)大丈夫じゃない。こんな格好をして大丈夫と言ったらウソになる」と弱気な一面も見せていた。

津川 雅彦の生い立ち

芸能一家に生まれ、子役として数本の映画に出演していたが、本格的な銀幕デビューは16歳のとき、1956年の日活映画『狂った果実』である。やはりこの映画が本格的な主演デビューとなる石原裕次郎の弟役を探していた石原慎太郎が一目見て気に入り、沢村家に頼み込んで強引にキャスティングして名付け親ともなったが、本人は新聞記者に憧れて早稲田大学高等学院に在学しており、「夏休みだし1本くらい出てもいいか」と軽い気持ちだったというが、映画のヒットとともにたちまちスターダムに上り詰め、日活の看板役者となった。

人気絶頂の1958年、松竹へ移籍するがここではヒットに恵まれず、フリーに転身してテレビなどに活動の場を広げるものの、1969年のデヴィ・スカルノとの不倫騒動をきっかけに仕事が激減。窮地に陥っていたところ、1972年から開始された必殺シリーズの悪役に起用され、再びブレイク(演出を担当した松本明から「世の中のみんなはお前が嫌いなんだから殺される悪役をやれ!」と言われて起用されたが、かつての美男スターのプライドを捨てて悪役をこなす中で多くを学んでいったという)。

1982年、『マノン』で第24回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞。

伊丹十三監督作品の常連として厳しい演技指導を受ける中で、中年となってからは好色な中年男性役で本領を発揮。

叔母の沢村貞子からは「雅彦、お前は顔がいいんだから、芝居は4倍うまくならないと認めてもらえない」と若い頃に口酸っぱく忠告されていた(20代半ばに差し掛かる頃より徐々に肥え始め、それに伴い独特の癖のある風貌が強くなっていったが、逆にその個性を活かした)。

ジェームス三木作品にも多く出演している。

1985年の『ひとひらの雪』を始め、渡辺淳一作品の常連出演者でもあり、ジェームズ三木、渡辺、伊丹の3人を自分にとって「三種の神器」のような存在であり、彼らなくして今日の自分はなかったとしている。

時代劇では三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)をすべて演じ、かつ、徳川家関係の人物を多く演じている[要出典](大河ドラマだけでも、『独眼竜政宗』で家康、『八代将軍吉宗』で綱吉、『勝海舟』で一橋慶喜を演じている)。

2014年春の叙勲では旭日小綬章を受章した。

2018年4月27日、妻の朝丘雪路と死別。同年5月20日に妻の死を受けて会見をしたのが、公での生前最後の姿となった。

同年8月4日17時45分、心不全のため東京都内の病院で死去。78歳没。

津川 雅彦の学歴

洛星中学校から同志社高校、早稲田大学高等学院編入・中退。明治大学付属中野高等学校、文化学院卒業。

津川 雅彦の妻、結婚

1973年、女優の朝丘雪路(元宝塚歌劇団月組娘役)と結婚する。

配偶者 朝丘雪路(1973年 – 2018年)。

津川 雅彦の兄弟、父、母

著名な家族 真由子(娘)
澤村国太郎(父)
マキノ智子(母)
長門裕之(兄)
牧野省三(祖父)

津川雅彦 自宅

 朝丘雪路さん逝去の会見で、夫の津川雅彦(78)は記者から妻との思い出を聞かれると「自分の借金で彼女の自宅を売らなきゃいけなくなった。それが一番残念だった」と答え、「すんなり家を手放してくれたこと」に感謝していると語った。およそ45年間続いた夫婦生活における、最も大きな出来事だったと思わせるコメントだ。

津川 雅彦 長女 誘拐 事件

津川雅彦長女誘拐事件(つがわまさひこちょうじょゆうかいじけん)は、1974年に起こった誘拐事件。誘拐された女児の両親が著名な俳優(津川雅彦と朝丘雪路)であったため、注目を集めた。

津川雅彦 誘拐事件 のSE

津川雅彦長女誘拐事件・・・事件解決に貢献した凄腕SEが凄かった。

1974年8月15日午前3時、東京都世田谷区の津川雅彦・朝丘雪路宅2階から長女・真由子(まゆこ・当時生後5カ月)が誘拐され、身代金500万円が要求される。犯人は身代金を第一勧業銀行(現:みずほ銀行)の偽名口座に振り込むことを要求、津川は警察の指示に従い当日に150万円を指定の口座に振り込む。

当初、当時のオンラインシステムから得られる情報では取引の行われたCD機を特定できなかったため、警察は第一勧業銀行の全店舗に人員を配置し、取引発生の度に捜査員がCD機周辺の顧客を包囲して犯人を捜すという大掛かりな作戦が展開された。しかし、これは本件の容疑者特定にはつながらなかった。実はこの時代、銀行口座を作るのは非常に簡単で、本人確認資料を提示する必要もないどころか、偽名でも作れた時代であった。要は、銀行にお金と印鑑を持っていけば作れたのである。

この間、第一勧銀事務センターのSEが、CD機の営業時間終了の8月15日17時を待って突貫作業でソフトウェアを書き換え、翌日8月16日には取引CD機が特定できるようにし、第一勧銀と子会社の常陽銀行のオンラインシステムが更新された。

 

SEは独断でプログラムの製作を開始したんよな。

顧客の情報に関わる事だから当初は許可なんておりるわけなかった

それで捜査が手づまりになって銀行側も窮地に立たされた瞬間、更新ファイルの入ったフロッピー持って本店に「これを使え、責任は俺が取る」って辞表と一緒に手渡した

東京新聞 津川雅彦

当時、『東京新聞』紙面ではこの誘拐事件が「子供が産まれた事を、自分の宣伝に使ったのが悪い」とし津川の自業自得であるかのような論調の記事が大きく掲載された。なお、『東京新聞』はこの件について津川の直接抗議にもかかわらず一切謝罪をせず、当時の編集長が津川に対し「私はジャーナリストとしての信念を貫いた」と反論した上、読者投稿欄で「津川の自業自得」とする投稿を多数採り上げて掲載するという行動を取った。津川はこの件も影響し、以降ジャーナリズムへの不信感を抱き続けた。

デヴィ夫人

1969年のデヴィ・スカルノとの不倫騒動をきっかけに仕事が激減。

 

 

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